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2024年4月10日(水)   東海道 横浜道 
                                  ルート図 横浜道 | 自転車NAVITIME                     
 昨日の雨と強風が嘘のように晴れ上がった晴天のもと、東海道・神奈川宿から、幕末に開港された横浜湊へ分岐する横浜道を辿ってみた。

 横浜駅の北口を出て、旧東海道の台町の坂道に建つ料亭田中屋に向かう。東海道五十三次歩きでも通ったところであるが、横浜駅からは数十段ある急な石段を登らなければ台町の旧道に出られないので、江戸時代には横浜駅辺りが江戸湾であったことを実感できる。西に向かう台町の坂道の左側には茶屋が建ち並び、田中屋の辺りに建っていた当時の茶屋・桜屋の二階座敷に案内された旅人などは崖下に広がる江戸湾を眺めながら、潮の香りを漂わせる海風を受けて酒肴を楽しんだことが目に浮かんでくる。今は高層ビルが建ち並び、海は遠く後退してその存在を感じることすらできない。

 台町の旧東海道を登り、下り切った浅間下交差点に出ると、その少し手前で、安政6年(1859年)の横浜開港に合わせて3ケ月の突貫工事で敷設された横浜道が旧東海道から左に分岐する。横浜道は平沼、戸部町、野毛町を通って吉田橋関門に至る道である。江戸時代、横浜道が通る地域は沼地であったせいか、幾筋かの川が江戸湾に流れ込んでいたようで、それぞれ橋が架けられ、その最初の橋が新田間(あらたま)橋である。

旧東海道・台町の田中屋
 
茶屋・桜屋

旧東海道から左に分岐した横浜道の入口
 
新田間橋  道路の先にランドマークタワーが聳え建つ

 ほぼ南東に向かう横浜道の両側にはビルが建ち並び、次第に正面に建つランドマークタワーの姿が大きくなってくる。横浜道はJRと相鉄線の線路によって分断され、現在の平沼橋は線路と帷子川の上に架けられているが、橋を渡って一本右側を並行する平沼商店街の道として残っている。横浜道の幅は3間(約5.4メートル)といわれているので、現在の平沼商店街の道は往時の道幅のままのように見える。
 江戸時代の錦絵では、平沼橋から先の横浜道の左側には海が広がっているが、現在、平沼橋から左を見ると、横浜駅とその周辺のビル群が目に飛び込んできて海の香りはまったく感じられない。

 昼食はここと決めていた、昭和25年(1950年)創業の蕎麦屋・角平(かどへい)で名物の元祖つけ天を食べる。元祖つけ天の謳い文句が効いているのか、12時前なのに十人近い客が店前に並び、順番を待つ盛況ぶりである。つけ天というのは、海老天付きのもり蕎麦であるが、もり蕎麦と海老天を温かい出汁で食べる。もり蕎麦は冷たい出汁で食べる物と、頭にこびり付いているため、どうも温かい出汁だと気が抜けた感じがして今一つである。しかし、食べ終わって店を出ても、同じぐらいの客が列をなしており、元祖つけ天の御利益は大したものである。
 

帷子川に架かる平沼橋
 
錦絵  平沼橋から関内に続く横浜道

平沼商店街
 
蕎麦屋  角平
 
 敷島橋から下を流れる石崎川を眺めると、左岸には桜が川面に枝をせり出して咲いている。昨日の雨と強風で満開の桜は大分散ってしまったが、まだまだ目を楽しませてくれる。

 戸部町七丁目から一丁目に向かって上り坂を歩いて行くと、左側に建ち並ぶ建物の間から小高い丘が垣間見えてくる。伊勢山皇大神宮入口交差点で左に曲がり、もみじ坂を上って行くと、ほぼ頂部に神奈川奉行所跡を示す石碑が建っている。道々左に見えた丘に神奈川奉行所が建っていたことになる。現在は県立青少年会館などの県の施設が建っているが、ここからもみじ坂を海に向かって下って行くと、日本で最初に鉄道が走った横浜側の終着駅である桜木町駅となる。現在、神奈川奉行所跡の一画は掃部山公園として整備され、井伊直弼の銅像が建てられている。井伊直弼は横浜開港の立役者であったことから開港50周年を記念して銅像が建てられ、その官位が掃部頭であったことから掃部山公園と名づけられたようである。公園からはランドマークタワーが目の前にそびえ立ち、園内に咲く桜を愛でながらレジャーシートを敷いた数人のグループが昼食を楽しんでいる。

 横浜というと、明治維新後に発展したと考えてしまうが、その礎を築いたのは江戸幕府、そして井伊直弼の開国主義であったと認識を新たにする。因みに、「柘榴坂の仇討」という小説は、明治維新になっても桜田門の変の襲撃者を探し回り、敵討ちを成し遂げようとする彦根藩士を主人公としているが、ついに13年後に襲撃に加わった水戸藩士を見つけ出し、いざ仇討ちとなり刀を構えるが、お互いにそれぞれの人生が桜田門の変が起きたその時に束縛されていることに気付き、現実に生きようと誓い仇討ちを諦めてしまう。作者の浅田次郎は、その場面で攘夷に凝り固まっていた水戸藩士に「のちのち思えば、そのお人(井伊掃部頭直弼)のおっしゃっていたことは、ごもっともでござんした」と言わしめている。確かに、開国に導くことが日本の将来の為だと考えた井伊直弼の先見の明により、横浜という貧相な小漁村は貿易港として発展を続け、3百万人を越える人口を抱える国際的な大都市に成長したといえる。銅像を建ててその業績に感謝するのは当然の成り行きといえる。
 

石﨑川に架かる敷島橋  満開を過ぎても美しく咲き誇る桜
 
 
 もみじ坂に建っていた神奈川奉行所跡を示す石碑  

掃部山公園に建つ井伊直弼像
 
掃部山公園からのランドマークタワー
 
 もみじ坂を挟んで掃部山公園の反対側に、明治3年(1870年)に創建された伊勢山皇大神宮があり、裏参道から境内に入る。もちろん、祭神は天照大神である。拝殿の前に建つ鳥居は、2本の柱の頂部に注連縄を取り付けた、一風変わったもので、大注連柱(おおしめばしら)と呼ばれている。諏訪大社の御柱を想像してしまう。
 拝殿の後ろに建つ本殿は、平成25年(2013年)の秋まで伊勢神宮・内宮の西宝殿に使われていた木材を再利用して建てられたものである。
 
 戸部町から野毛町に向かう横浜道は開削して造成したようで切通しの道となり、左右の高台斜面には石垣が積まれ、三渓園を造った原善三郎ら横浜の大商人が別邸を建てた左側の高台は、現在、野毛山公園、野毛山動物園となっている。

 横浜道は野毛坂交差点で左に曲がり、野毛坂を下って行き大岡川に架かる都橋を渡ると、横浜道の終点に設けられた吉田橋関門跡となる。横浜道が敷設された時には、伊勢山下から都橋辺りまでは入海であったため吉田橋が架けられたという。そして、横浜湊との人の出入り、物資の搬入出を取り締まるために、吉田橋関門が設けられた。関門を渡ると馬車道で、そこは関内と呼ばれ、横浜道の方は伊勢佐木町で関外と呼ばれるようになったという。吉田橋関門跡のすぐ右に高架となった関内駅があるが、幕末から明治時代にかけて吉田橋関門辺りは横浜湊を介した貿易の中心地として大いに繁栄し、今以上に人の往来、物の搬送で賑わい、活気に満ちた場所であったようである。

 現在では横浜道の存在など知らない人が大半であろうが、幕末を題材とした小説などで描かれる、アメリカなどと交渉する幕府の役人、貿易に利益を見出そうとする商人、外国人を撃ち払おうと考える勤王・攘夷の武士等が横浜道を歩いて横浜湊と江戸を往来していたと想像すると、当時の喧騒に混じって潮騒、潮の香りが伝わってくるような気がしてくる。
 
 横浜道はここで終わりとなるが、ついでに足を延ばして、新しく建築された横浜市役所の建物に立ち寄る。1階と2階には商業施設が入るという新しいコンセプトで設計されており、1階のテラスに並べられたテーブル、デッキには市民や観光客が飲みながら、食べながら海とランドマークタワー等の超高層ビル群が作り出す都市景観を楽しんでいる。

伊勢山皇大神宮 拝殿
 
野毛坂交差点  野毛坂の石垣

横浜道の終点  吉田橋関門跡石碑
 
横浜市役所テラスからのランドマークタワー


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